狩猟の話
きっかけ

動物を食べる、ということの本質について気になるきっかけがやってきたのは、

 

初冬の晴れた祝日のことだった。

 

それは、軽トラの荷台の真ん中にひとつ乗せられた鹿の首に開かれた鹿の目。

 

青い空を映して、大地から掘り起こされたばかりの澄んだ原石を想わせる深いブルー。

 

「ほら」と指さされて心の準備なしでの出会いだったが、心の中に小さな響きが静かに起きた。

 

新鮮で、なにか大切な事に触れたことを知らせる響き。初めての感覚。

 

その鹿は翌日の収穫祭のために、村の猟師さんが振る舞いだと運んできた肉体であった。

 

その響きを内に留めたまま、昼ご飯の時間を迎えた。

 

神妙に、刺身を一切れつまみ上げ、口に含み噛むごとに、

 

先ほどの小さな響きがどんどん大きくなって身体の中にいっぱいになった。

 

味の印象というより、「エネルギー」を感じていた。

 

強い、と言う表現が何かを食べたときに在り得るのだと知った。

 

そのあと更に箸が進むことはなく、

 

量としておなかがいっぱいになったわけではないが、

 

エネルギーで満たされ、それで本当にじゅうぶんだったのだ。

 

それまでに経験した「肉を食べる」ということと次元が全く違うものだった。

 

それから数年経って、その体験が不意打ちに思い出されることになった。

 

料理の仕事でお世話になっていた旅行業のタビゼンさんとの打ち合わせの際に

 

話が少し脱線し、なんと「狩猟ツアー」が在ると言う。

 

その場ですぐに申し込んだ。

 

信州伊那谷の宿で、狩猟の現場に立ち会わせてもらい、山の肉の料理をいただく旅。

 

その後、そのツアーでのことは私の中で深い興味の対象となり、

 

たくさんの知人にその話をしている。

 

 

そして2年して、

 

狩猟ツアーが内容を変えて行われると言うので、

 

カメラとノート持参で参加できるように無理を言ってみたら

 

ありがたい事に特別に承諾をいただけた。

 

 

これは、その体験を私なりの視点で記録し、私なりに感じたことの記録。

山に在る

実際に猟師さんに会う前に「猟師」と聞いてイメージしていた像を、

 

振り返って以前の記憶を探ってみる。

 

古くのマタギのようであり、鉄砲担いだ理知的な紳士のようでもあった。

 

 

一度目に出会った小出さんは、現れた時はさわやかなお兄さん風だと感じたけれど、

 

山に入るとその印象は一面でしかないと気づいた。

 

この地で育った猟師二世。

 

 

 

二度目に参加した会で猟師の姿を見せてくださったのは小渕さん。

 

都会も良く知る移住者。

 

参加者が集まるのを待ちながら聞いた話が印象的だ。

 

「私はこの谷に住む以前は自分のことをハンターと呼んでいました。

 

ハンティングをする土地に、そのために出かけていっていたのです。

 

でも今は『猟師』と呼んでいます。

 

今はここに住んでその山で動物たちと共にあり猟をするからです。」

 

それから様々なシーンで繰り返された言葉「それが日常なんです」。

 

 

この二人の猟師、

 

あらかじめ想像していた二つのイメージはどちらも当てはまるようであり、

 

そして更に、武士ってきっとこんなだろうなと感じたものだ。

 

 

どっしりと落ち着いた、腰を落とした歩き方、

 

食事の席での胡座と語り方。

 

 

そして何度も出会った揺らがぬ眼の力。

 

いろり端に腰を下ろして語る姿に

 

陣営に在り明日の行方に向き合う「知る者」が見えた。

 

「知る者」とはこのようなものであるのかと、初めて目にする人の姿が印象的だった。

旅の拠点となる宿の前で、

 

小渕さんと山師料理人のハセヤンこと長谷部さんが男臭い立ち話をしていた。

 

 

この日は春の初めとは思えない暑いくらいの暖かさ。

 

宿の前を走る道路を挟んだ向こうに流れる川は、白く見える。

 

それは「雪代(ゆきしろ)」と呼ばれるのだと言う。

 

雪解け水が混ざって山から下りてくるときにそうなり、

 

これが5月くらいになると空の青色と混ざり、

 

ミルクをたらしたような青色になると言う。

 

これは小渕さんから聞いた話。

 

彼自身がこの谷の暮らしでの日々を新鮮に感じて過ごしている事が、

 

そのまま語られているような話し方だった。

 

 

 

さて、猟師と料理人の立ち話の立ち聞き。

 

「グループ猟の人たちより、単独猟の人たちの方がスケベだよね。」

 

女ながらに、そして猟のこともほとんど知らないが、なんとなくわかるような気もした。

 

スケベっていうのは、生のエネルギーのことであろうと思うからだ。

 

 

 

狩猟は生き物の命と直接的に関わる行為。

 

私たちの誰もが、動物や植物と言った生き物の命を戴いて生きている。

 

特に動物である人間が動物を食べるということは、

 

命というものに畏怖の念を強く感じるからこそ、

 

あこがれであり、欲望であり、怖いものであり、

 

タブーであったりするのかもしれない。

 

人間の生理が揺さぶられること。

 

 

猟師の後ろ姿を追って山を歩くことで教えてもらった、

 

彼らの向き合いの心。

 

「罠にかかった動物を何日も放置しない。

 

 できるだけ苦しませないこと、

 

 他の動物に危険を知らせないこと。

 

 そして無駄なく使うこと。」

 

 

ワタヌキ場、ジビエマイスター、狩猟サミット、、、

 

 

いくつもの聞き慣れない言葉が耳をかすめていた。

猟師が関わるのは動物とだけではなく、

 

それらが暮らす山全体だ。

 

鹿が増えれば、鹿が食べるだけ下草が減り、立ち木の皮を食べて樹が枯れていく。

 

部分でなく、全体を見ることのできる猟師は、

 

ガイアを守る使者のように思える。

 

自然の摂理、そして人間の行為がぐるりと繋がって現れる影響。

 

 

土の上に残る動物の足取りを細かく見て行く。

 

例えば足跡、糞、枝葉や草の状態など。

 

そこに鹿の道を見つけていく。

 

 

そして森の空間全体にも目を光らせる。 

 

近景には齧られた樹の皮、そして全体を眺めたりと、

 

常にレンズのズームを変えながら状況を捉えていこうとする集中力。

 

 

考えるより感じることが大切だと猟師は言う。

 

眼と感覚。

 

違和感を感じたところをよく見て探すといろんな情報が見えてくるというわけだ。

 

 

ここで出会った狩猟に関わる人は皆、話し上手で説明がわかりやすかった。

 

それは全体知った上での細部を見る力がそうさせているのだろうか。

 

そして、今、という時に落ち着いて集中できる

 

自身との関わり方に依るものもあるかもしれない。

罠をかける時に話を聞きながら見る事も印象的であったが、

 

銃を担いで静かに歩きながら獲物を探す「忍び猟」の体験は

 

静かな緊張の中に、更に山に在ることを深く感じさせてくれた。

 

 

許可を得ているものだけが超えられる「立ち入り禁止」の赤いゲートを跨いで乗り越える。

 

そこから空気感が変わったのに気づいた。

 

その場の気が変わったのは多少のことで、

 

大きく変わったのは私たちの心構えだった。

 

 

参加者も一列に並んで後ろに続いた。

 

出来るだけ音を立てずに一歩一歩山に入って行く。

 

もちろん話はしない。

 

 

くねくねと登る道の途中カーブミラーの中に見つけたのは、

 

たった一人で深い山を歩く狩人の後ろ姿。

 

山の獣のひとつとして、

 

静かな駆け引きをしているようだった。

 

カーブの向こうで右、左、右、左、、、

 

規則正しく繰り返し、時々止まって一点を見る。

 

抜き足差し足忍び足。

 

呼吸の速さで。

 

 

気配を消しながら無に近づくと同時に、注意は拡大しているのだろうか。

 

気配を消して進んでいるが、それは音を消すだけじゃない。

 

難しいのは気持ちを抑えることだ。

 

 

歩く間に何度も鹿の糞を見かけた。

 

私たちは今、鹿の道を歩いている。

 

道路を鹿が横切るのに出会うことはあるけれど、

 

今は私は鹿の道を縦に歩いているのだ。

 

 

小渕さんが足を止めて鉄砲を肩から下ろしかける。

 

それに誰かが気づいて足を止めると、

 

皆が無言のままに伝え合って続いて止まる。

 

それぞれに周囲に視線を巡らせていても、短い時間で全体に伝わった。

 

まるでこちらも鹿の群れになったかのように。

 

 

石の青が河に溶け込み、

 

河原ごと美しいこの風景を見下ろしているであろう鹿の日常に想いを馳せた。